この画像が夢に何度も出て来た。
「閉」と言う字を意識の出入り口に貼り付ける意義の印象が大き過ぎて、それが映画全体の中でどのような役割を担っているのか、考えが纏まらない侭、床に就いたのがいけなった。
これはキム・ギドク監督の春夏秋冬そして春と言う映画の中、老僧が自らの死が近づくのを感じ、見取る者も居ない山奥湖上の寺にある、唯一の小舟の上で自ら火を点け火葬するシーンである。同じく彼は入滅前、彼の弟子の顔にも「閉」の字を貼り付けお仕置きをしている。私自身は間違っても仏教徒を名乗れない身の上なので勝手な想像に留まるしかないのだが、般若心経の「無眼耳鼻舌身意」を象徴化したものかも知れない。
春。壮年の僧が、仏壇の横の部屋で寝ている若僧を起こす。寝間との間には真ん中に扉があるだけで、左右に壁が無いので、仏間から眠っている若僧の様子が見える訳なのだが、寝間と仏間の出入りは、必ずその扉を開けて通る。声を掛けるのにも、扉を開ける。無いも同然の扉(仕切り)なのだが、これがあるから仏間が仏間になる。仏間が神聖な場所、寝間は休む場所。人間がけじめを付けると言う事のシンボルなのだ。
その「けじめ」を破る時が、この若僧にも来る。若い少女が病を治しにこの小さな寺に住む。今迄自然と老僧だけが相手だった若い僧の、抑えられない自然の欲求が、この見えない壁を初めて取り去ってしまう。
この映画には、そう言った様々なシンボルが所狭しと並べられている。限られた空間に秘められた自然の多様美、音と視点の見事な組み合わせだけでも見応えは十分なのだが、その中にメッセージがぎっしりと詰まっているので、消化するのに多少時間が掛かる。
もう一人、顔を塞ぐ人間が登場する。
冬。小さな赤子を手にした女性が、顔全体を布で覆って寺を訪れる。この女性が何故顔を覆って居るのか、観ている方は想像するしか無い。その前の秋の場面で、血塗りの短刀を片手に嫉妬で心を荒らした元若僧が寺に戻って来るのだが、彼を捕らえに来る警察官も何の罪かは言わない。その女性の顔を若僧が傷付けたのかも知れない。赤子は彼の子か、それとも、彼女の他の男との間に出来た子か、そう言う事も問う必要は無い。何れにせよ彼女は、刑務を終えて戻って来た元若僧が洗顔の為に開けた穴に落ち、氷の張った湖の中で命を落とす。彼女が布で顔を覆って居なければ、その穴は月明かりでも見えた筈。彼女が顔を布で覆わなければならなくなった原因が、多分元若僧にあったのだろう。
この若僧の幼い頃、小魚、蛙、蛇に重しを付けて遊んだ結果、小魚と蛇が死んでしまったと言うのが、大きなテーマの始まりである。それと平行して、この寺には色々なペットが住み着く。小舟に添い寝している若い二人を驚かす為に、老僧は飼っている鶏を使う。その鶏を、女を追って寺を去る若僧は連れ去ってしまう。若僧が戻って来ると猫が住んでいる。その猫の尾を使って、老僧が般若心経を寺の床に書く。若僧が警察官に連れ去られる時、猫は自ら小舟に乗って共に去ってしまう。自ら火葬をする老僧の小舟から蛇が寺に上がって来て、元若僧が戻って来る迄その仏間に居る。その動物達のアクセントも、敷き詰められたシンボルの中で光っている。
通奏低音は「経験からしか学べない」と言う所だろうか。キリスト教世界の真っ只中に生きている私には懐かしい響きだ。人間、人から言われて何もかも制御出来るなら、こんな世の中にはならないで済んでいる。露骨な性場面も、四季の移り変わりの如く人間の自然な欲求として組み込まれ、恋する若僧を老僧は特に諌める事もしない。このシステムを心得た、珍しい教えである仏教に親しみを感じる所以でもある。そう言う意味でこの映画は、仏教が他宗教と異なる根本を突いたとも言えるだろう。
一寸話が逸れるが、北野武の映画作品にも時折ある様に、使われる音楽そのものは美しいのに陳腐なシンセ音を使っている為に何かちぐはぐな感を受けるのは、幾らか残念なのだが、これで実際のオーケストラ演奏等使用したら却ってキッチュになるかも知れない。観ている者に沢山の「?」と「!」を残す手法は、確かに北野映画に似ている。美しいだけの芸術は、昔から通用しなかった。人の心に杭を打ち、疑問符の卵を産み付ける。そんな映画に久し振りに出会えた事に深謝。


